1997年10月、生理の乱れと倦怠感が続いたため、婦人科で検査したところ、「子宮ガン」と宣告されました。 8年前、夫を一人残し、子どもとともにアメリカに渡ったのですが、その生活にも慣れてきたころでした。夫の母がガンで亡くなったため、日ごろから食べ物には気を遣い、運動も欠かさず行うなど、規則正しい生活を心がけてきたのに、 「なぜ、私がガンに!」検査結果を電話口で聞いた時は、いきなり雷が落ちたようなショックを受けました。
その後、病院で医師から、5年生存率の範囲内で、可能な限りの治療法をすべて説明されましたが、スラスラと機械的に語る口調から、私は一人の人間ではなく、「ガン患者」として扱われていると強く感じました。 もちろん、あくまでも自分の意思で治療法を選ぶのは、アメリカでは当然ですが、その根拠となるのは5年生存率だけです。「ガン患者というのは、こういう病院のシステムのなかで機械的に扱われるものなのだ」と痛感しました。
そこで、医師の言うことだけを鵜呑みにするのではなく、自分で徹底的に調べ上げてから、治療法を決めようと思いました。なぜなら、治療を受けるのも、病気を治すのも私自身だからです。 もう泣いてはいられません。冷静になって、たくさんの情報を集め始めました。
私が選んだのは、子宮頸部円錐切除術という子宮の部分切除手術です。早期発見であったため、全部摘出する必要はありませんし、子宮という女性の機能をなくしてしまうことは、絶対に避けたかったからです。 それでも、あとで医師から、「転移を防ぐために、何年かしたら子宮も卵巣も取ってしまったほうが安全」と言われました。その言葉を聞いて、たとえ五年生存率ではそうであっても、子宮は絶対に残そう、そのためにガンと闘っていこうと決心しました。
しかし、その後、ハプニングが起こりました。手術痕から大量に出血し、止まらなくなってしまったのです。すぐに自分で車を運転し、病院に向かいました。今から考えれば神様が守ってくださったとしか思えないのですが、信号はすべて青。病院まで普通なら25分かかるところ、なんと15分で着くことが出来たのです。
病院では医師もびっくりし、「救急車を呼ぶくらいの出血です」と言いましたが、よく見ると車のシートは真っ赤に染まっていました。何もかも夢中で気がつかなかったのです。
すぐに手術を行い、傷口を治療しましたが、あと5分、病院に着くのが遅ければ命がなかったそうです。
運の良さに感謝したものの、さすがに不安になりました。そこで、この一件の直後、98年の1月中旬から天仙液を飲み始めることにしました。
そして、1ヶ月後の2月中旬、旧正月を祝うため故郷の台北に戻った時、当地の主治医に相談してみたところ、「子宮も卵巣も取る必要はない」とのこと。頻繁に検査を受けながら、その時々の治療法を受ければ十分だそうですし、さらに、アメリカに戻ってからも同じようにセカンド・オピニオン(主治医以外の医師の意見)を求めたところ、「必要なし」とのこと。これで、ようやく安心しました。
ほんのわずかの油断で再発
しかし、しばらく経って、思わぬところで再発しました。 6月には、病気が治ったと勝手に自分で決めつけ、家族揃ってアジア旅行を楽しみました。この間、ガンには良くないといわれているエビやカニなどを食べたのがまずかったのでしょう。8月中旬に日本に立ち寄ったとき、突然、足の痛みや倦怠感に襲われました。
アメリカに戻ってからも続いたので、11月に検査したところ、右側の乳腺にしこりができていました。3年前にも乳腺にしこりがあり、その時は漢方薬で治したので、今回もそれと同じかと思っていたのですが、念のため検査したところ、ガンだったのです。元気になった嬉しさのあまり、すっかり油断していました。天仙液も決められた時間はおろか、飲んだり飲まなかったりでしたし、食べ物にもあまり気を遣いませんでした。そこが甘かったと反省しましたが、後悔しても始まりません。 しかし、この一連の出来事は病気と闘う上で大きな教訓となりました。
さて、医師からは、乳房の一部切除(脇の下のリンパ節を含む)プラス放射線治療と、乳房全摘の2つの治療法を提示されました。そこで、前回と同じようにいろいろ調べ上げ、一部切除を選ぶことにしました。
前からかかっている漢方医からは、全摘であれば経絡へかなりのダメージを与え、全身への影響が大きいが、一部切除なら少なくて済むとのアドバイスも受けていたからです。
翌99年4月、検査を含めて2泊3日で行うという簡単な手術を行いました。手術後、すぐに天仙液を飲み出しましたが、家に戻ってから、だるくてなかなか眠れません。体の中に気が流れていない感じがしました。
そこで、天仙系列製品の一つである貼り薬の天仙膏を追加したところ、ようやく眠れるようになりました。
1ヵ月後、放射線治療を開始しましたが、その最中は副作用で体調がかなり悪くなってしまいました。転移を防ぐために、肩からお腹まで放射線をかけていったところ、肝臓付近に痛みを感じるようになったのです。つぎに影響があったのは肺でした。もともと気管が弱かったため、息切れと咳がひどくなってしまいました。そして、とうとう腎臓付近にまで痛みが現れたのです。
合計33回、放射線を当てましたが、どうにも耐えられなくなり、途中で天仙丸と天仙栓を追加し、漢方医のところでマッサージを受けました。すると、だんだんと副作用が軽くなり、食欲も湧いてきましたし、気持ちにハリが出てきました。
「家族のためにも、自分のためにも頑張ろう」という思いが強くなり、無事に治療を終え、元通りの生活に戻ることができました。
ガンと闘う上で大切なこと
さて、2度のガンの経験からガンと闘っていく上で大切なこととして、つぎのように感じました。
一つ目は、治療法を選ぶときには、全身へのダメージが少ないものを選んだほうが良いと思います。可能であるならば、手術は一部だけにとどめ、別の治療法を追加するほうが体への影響は少なくて済みます。
特に、生殖器の場合、摘出してしまうとホルモンのバランスが崩れるため、一生ホルモン剤を飲まなければなりませんし、そうなると、全身に影響が出てきます。また、私は自分の子宮や卵巣を自分で守ったという自負があるのですが、女性の場合、生殖器がなくなってしまうと、女性としての自信が喪失してしまう人も多いようです。その意味でも、できるだけ身体への負担が少ない治療法が良いと思います。
二つ目は、免疫力が落ちている時こそ、再発や転移しやすいことです。私の場合、旅行の最中で、疲れと生活のリズムが狂ったことが再発の原因だったと思っています。ですから、なるべく規則正しい生活を送ることが大切です。
三つ目は食事に気をつけること。ガンに良くないと言われている食べ物は絶対に食べてはいけません。そして、なるべく肉類は控え、野菜、大豆類を多く摂り、バランスの良い食生活を送って下さい。
四つ目は、自分自身の気持ちのあり方です。私自身、ガンとわかった時に自分の命はもう長くないと感じたのですが、これが逆に自分の人生を見直すいいチャンスだったと思っています。自分の生活はもちろんのこと、自分自身についてもです。
実は、私の場合、これまですべてを完璧にこなさなければ気が済まなかったため、いつもストレスを溜めていました。しかし、病気になったら完璧主義ではやっていけませんから、自分の性格を振り返り、心の中を洗いざらい整理してみました。
その結果、たとえ完璧でなくても、努力をしたことに意味があると考えられるようになりましたし、性格も以前に比べてずいぶん柔らかくなったように感じます。
最後に、家族との絆が病気を乗り切る上でいかに大切か、ということです。 たとえば、こんなことがありました。私が二度目のガン摘出手術を受ける2日前、病院から戻ると灯もつけずに夫が部屋で一人、泣いていました。 「なぜ、泣いているの?」と聞くと、「母親はガンで亡くなったけど、高齢だったから、悲しくても運命だとあきらめることができた。だけど、まだ若いお前がガンだなんて・・・・・。お前がいなくなったらとても不安だ」 そして、「私は、お前を愛している。だから、ガンなんかに負けないという強い気持ちをもって、必ず生きていてくれ」と、大粒の涙が頬を伝うのもかまわず訴えたのです。 夫は仕事のため海外を飛び回る生活を送っており、アメリカへはたまにしか帰れません。それもつらいのでしょう。私は、この涙を見て、「夫と子どもたちのために絶対に治してみせる」と決心したのです。 今、私はとても元気に、楽しく暮らしています。これまでもつらいことはたくさんありました。ただ、そのなかからたくさんの大切なものを得ることが出来たのも事実です。
ですから、ガンと宣告されても、医師から匙を投げられても悲観することはありません。
希望は必ずあります。「絶対に負けない!」という気持ちを持って、私と一緒に闘っていきましょう。 |